読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

畜群総排除委員会

わちきはわちきに危害を加えてくる畜群を排除したいだけ。

わちきとボカロの話

こんばんは。3月もいよいよ今日で終わりということとはあまり関係ないのですが、今回はボーカロイド(以下ボカロ)の話でも。

 

わちき、ボカロが好きでした(過去形)。初めて聴いたのが『後追い自殺に定評のあるみっちゃん』(GUMI,2010)でした。そこから暗い曲を中心にボカロを聴くようになり、やがてはポップスやロック、ラウド、メタルなどいろんな曲と出会いました。

 

前職の初任給で初音ミク(V2)を買い、以降、GUMI(V3)、MAYU(V3)がわちきのパソコンにインストールされています。されてるだけでほんの少しも触っていません。御免なさい。

そのほか、ボカロのコンピレーションアルバムやベストアルバム、同人ショップで好きなボカロPのアルバムを買い漁ったりとそれはそれは熱心でした。でもその熱も2013年ごろには冷めてしまい、現在はボイスロイド(実況・怪談)に興味があります。

 

昨今のボカロ界隈はどうなのか、さっぱりです。ただ、わちきが感じている印象としては、ミリオン曲がなかなか出ないとか、ボカロのコンピレーションアルバムが発売されなくなったとか、そういうことを感じています。ボカロはオワコンなのか?

今年で初音ミク発売から10年になるわけですが、その技術自体は進化しているはずなのに、どうしてヒット曲がかつてのように次々に出なくなったのか。一番大きいのは有名ボカロPのプロデビューとかバンドデビューじゃないのかなあとわちきは思います。

 

さて、ボカロや東方といった「同人音楽」について、音楽社会学の観点から「音楽萌え」を提唱した井手口彰典先生の論文を熱心に読んでいた時期がありました。なかなか興味深いものがありました。

初期のボカロ論はYAMAHAの技術的な部分に触れた論文が多かったと思いますが、現在はボカロやその他同人音楽全般を「ソーシャルミュージック」として、主に社会学の観点からの論文が多いと感じています。

 

それはさておき、今回の記事ではそういう学問的なことを語るのではなく、純粋にわちきがボカロにハマっていた時代を振り返りたいと思います。具体的には、わちきの好きなボカロ曲ベスト10を発表するということで。カッコ内はボカロ名、ボカロP名、発表年です。

 

第10位『夜咄ディセイブ』(IA,じん(自然の敵P),2011)

この頃はIAといえばじん、じんといえばカゲプロと言われてたような時期でした。次々に発表されたカゲプロの曲の中でも一番好きな曲です。じん、カゲプロともにあまり好きではないのですが、カラオケに行くとまず最初にこの曲を歌います。

 

第9位『モザイクロール』(GUMI,DECO*27,2010)

GUMIとDECO*27の代表曲。ボカロ豊作時代(2010〜2012?)の中でもGUMIが有名になったきっかけの曲かもしれない。

 

第8位『Mr.Music』(初音ミク巡音ルカ鏡音リン鏡音レン・GUMI・歌愛ユキ,れるりり他,2011)

有名ボカロPのコラボによるボカロ6人でのユニットです。元気が出る曲です。

 

第7位『サンセットラブスーサイド』(GUMI,マチゲリータP,2011)

ニコニコの「VOCALOID幻想狂気曲リンク」タグで見つけたマチゲリータPの有名曲。タイトル通り、「愛さえあれば死ねる、一緒に死のう」という暗い曲。

 

第6位『Just Be Friends』(巡音ルカ,Dixie Flatline,2009)

ルカの代表曲。それ以外に特筆することはないけど、耳に残った。その後の2人を描いた『Answer』も名曲。

 

第5位『チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダ』(結月ゆかり,和田たけあき(くらげP),2016)

2016年ミリオン四天王とも呼ばれたわちきが最近聴いた曲。わりと残酷ですが覚えやすい歌詞です。結月ゆかりのボカロ版もなかなかいいもので、同じPの曲でも『サヨナラチェンソー』と同じくらい好きです。

 

第4位『カミサマネジマキ』(GUMI,kemu,2012)

kemuの代表作と言ってもいいんじゃないかってくらいのバリバリなロックな曲。テンポ早いのでカラオケでは歌詞が追いつかない。途中のギターソロがかっこよすぎる。

 

第3位『コロナ』(鏡音リン,鬱P,2011)

わちきはリン・レン自体は滅多に聴かないけど、鬱Pによるデスボイス仕様のリンの曲の中では一番好きな曲。カラオケでも歌いたいけどデスボがまず出ない。

 

第2位『後追い自殺に定評のあるみっちゃん』(GUMI,マェロP,2010)

わちきが初めて聴いたボカロ曲で、Twitterのアカウント名の由来でもある。二次創作として独自解釈のPVが作られたり、カバーされたりしてるけど、カラオケには残念ながら配信されていない。

 

第1位『青』(MAYU,164,2012)

『天ノ弱』で一躍有名になった164の曲の中でもMAYUの特典CDに収録されていたマイナーな曲ですが、わちきが皆さんに薦めるならこの曲を推します。後に発売された164のメジャーアルバム『BLURRY Feat. GUMI, MAYU』には大サビ後にギターソロを追加したリミックスバージョンが収録されています。「好きかどうかわからないと君が言うのなら その頭を二つ割って覗いてあげましょう」のフレーズが特に好きです。

 

 

ランキング全体では、わりとメジャーな曲ばかりだったので皆さんも一度は聴いたことがあるのではないでしょうか。

 

ということで、今回はこの辺で。

いろいろあっての自分

こんばんは。久々のブログ更新になりました。

 

Twitterの方ではフォロワーの皆様にご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。

昨年10月末に自殺を図り、未遂で終わって集中治療室に入り、生死の境を彷徨って無様にも生きて帰ってきたわけで。

きっかけは、これまでにないような屈辱を味わったから「もうやだ。死のう」だったと記憶しています。数週間ほど意識不明だったのでもう曖昧。不思議なことに何も覚えていなかったです。

家族による発見が早かったのと医師の懸命な処置のおかけで、死ぬことはできなかったのですが、それはそれで良かったと思います。

わちきがTwitterを離れている間にフォロワーの皆様からの励ましのリプがあって、それを生きて、自分の目で確かめることができて、それはそれで嬉しい気持ちがあります。

 

ただ、最近もあまりメンタルが安定していなくて、そうなるとすぐに浪費癖が出るもので、ゲームやVOICEROIDの東北きりたんを買ったり、友人と遠出(主にゲーセン)したりして、「あー、またやっちまった」という気分に陥っています。

 

毎年3月から4月にかけては、気候の変化も多少の影響を受けているのか、どうも波が激しい。

 

勤めていた会社は、上記の経緯からクビになり、ニート生活を送っています。

遊ぶお金は、わずかながらの貯蓄から出したり、物を売ったりしてまかなっていますが、どうもそれも自転車操業のような苦しさがあったりする。

これ、大学院時代にも似たようなことをしたなーとつくづく思いました。

 

県内の南部にある比較的大きな病院(高校生の頃に入院した病院)にいました。

約4ヶ月ほどの入院生活だったのですが、他の患者さんとは特に交流しませんでした。

朝起きて、ラジオ体操して、それから朝ご飯を食べて、看護師さんとおしゃべりしたり一人でベッドの上でじっとしてたりと、無意味な生活で充実はしていませんでしたが、外泊があるといい気分転換になりました。

 

開放病棟に移るのが早かったので、後半はスマホも消灯時間内に触れました。が、ツイートはそれほどしませんでした。呟くことがなかったから。「無意味なツイートしてTL汚すのも嫌やな」と思いつつ。

 

家庭環境も上記のことから良くない状態が続いています。

家族とは一切話はしません。あるいはわちきから話すこともないです。

ただただ毎月あるい程度のお金を支払って、入院費等を返すだけの関係です。

 

就職活動ですが、ようやく始めたばかりでまだ何も決まっていませんが、前の職場のような勤務時間帯がバラバラでメンタルを崩しやすい場所は避けようと思っています。

障害者手帳を持っているから障害者枠の求人を探してもいいんじゃないかと思いましたが、大阪や神戸や京都なんかと違って、所詮は田舎。アルバイト、パート程度の賃金での求人がほとんど。それでは生活していけない(実家から出られない)。

まずは、実家との縁を切るための資金作りに徹して、アルバイトでも何でもいいからとにかく働くか、というところ。ストレスがたまるとすぐ浪費するのはいつまでたってもやめられない。どうしたもんか。

 

自室以外の家の空気は極めて重苦しい。それは結局のところ自分が原因で作ってしまった雰囲気だから仕方ないのかもしれない。毎食ご飯が食べられて、ネットができるだけありがたいと思わないといけないのかもしれない。頭の中では「分かってる。分かってるけど…」と思考がループしてしまう。

 

世の中が悪い。憎い。そこから離れたい。だから無謀にも死を選んだんだと思う。

故人となってしまった蘭人ちゃんはどういう思いで逝ってしまったんだろうか。入院生活中ふと考えることがありました。

あるいはわちきの大切な友人たちのこと、先輩・後輩のこと、過去のこと、思い返して、その思いをメモしていました。

 

何かの結論を得た訳ではないのですが、とりあえずブログにしておこうと記録した次第です。

 

わちきは大学院時代にある学者の論文を翻訳してて、世の中はあらゆる場所で人の記憶の外部記憶装置が機能しているなーと思うことがありました。人の記憶が場所に拡張していく。そこに地理的想像力が湧いてくる。それが一つの外部記憶装置であると思いました。

普段から使っているTwitterの何気ない呟きだって、人の外部記憶装置だと思います。ネットそのものも。「ネットは広いから」なんてセリフもあるわけで。

 

小難しくなってすみません。

今日はこの辺で。お休みなさい。

距離の美しさを「表現」すること

こんばんは。久しぶりのブログ更新になりました。


お盆が終わってからというもの、体調を崩し1週間休職して、無気力状態になっていました。

せっかく発売日に購入したテイルズオブベルセリアも序盤で放置、PSO2もレベリングとレアドロだけの作業ゲーになった感があり、満足感が得られませんでした。

 

今日は通院日だったのでそれに合わせて新海誠監督の最新作『君の名は。』を見に行ってきました。今回はその感想と考察のようなものを少し。※ネタバレ注意。

 

ストーリーはある少女と少年が夢の世界で入れ替わってしまうという現象が起こり、その二人がお互いを好きになっていくというラブストーリーだったかと思います。
一言で感想を言えば、前々回の『星を追う子ども』のようなジュブナイルから打って変わって、新海作品で頻繁に見られるSF要素がまた帰ってきたなあという感じでした。ラブストーリーは新海作品全般的に見られます。あとは相変わらず美しい背景。特に雲の表現はいつも凄いなあと思っています。これは映画研究者からも言及されていますが「クラウドスケイプ」(加藤幹郎編『アニメーションの映画学』2009年)によるメロドラマ性が、わちきや他の視聴者を魅了したんだと思います。

 

わちきと新海作品との出会いは大学院生時代でしたので今から約7年前になります。『秒速5センチメートル』を後輩たちと鑑賞しました。それから彼の過去の作品群を視聴し、2011年5月に公開された『星を追う子ども』を公開初日に見に行くほど、彼の作品群に魅了されてしまいました。その後、これまでの新海作品に関する論考を大学のサークルの同人誌に寄稿させてもらうくらいに熱心に彼の作品を読み込みんだつもりです。

 

新海作品は美しい背景の表現もそうですが、「距離の美しさ」の表現も考察する要素が充分にあります。『ほしのこえ』でだんだんと遠く離れていく少年少女の距離、『雲のむこう、約束の場所』でも主人公の、蝦夷に建てられた「塔」とそこに眠るヒロインへの憧れが、『秒速5センチメートル』では遠く離れてしまったヒロインへ会いに行く、『星を追う子ども』では地上から地下世界の深淵へ旅するという距離が描かれました。それらは「まだ見ぬ世界への憧れ」でもあったと思います。わちきはそれを「地理的想像力」と結びつけて考察しました。

 

さて、今回の『君の名は。』も、東京と飛騨でそれぞれ暮らす少年少女の距離の美しさが表現されていたと思います。夢の中でも2人は会うことができず(それどころか入れ替わってしまう)、また現実世界でも物語終盤まで直接会うことができなかったという距離。そこにもどかしさを感じることもありましたが、同時に新海作品らしい「距離の美しさ」も感じました。

 

組紐のシーンで少女の祖母が語ったように、あるいは少年が腕につけていた紐の正体に気づいた時のように、まさに人と人、場所と場所を「結ぶ」という意味で、キーアイテムになっていましたね。

 

彗星が地球に接近し、世間ではその光景を楽しみにする人々に囲まれているわけですが、彗星の一部が隕石となって町と人々を消し飛ばすというSF的要素も新海作品初期を彷彿させたような気がしました。しかもそれが3年前の出来事であって、此岸と彼岸の境で出会えた少年少女でしたが、既に少女が死んでいたという衝撃。そのまま終わってしまうのかと思いきや、違う「世界線」とも言うべきでしょうか、大人になった2人が偶然にも出会い、お互いが「君の名は…」でしめるというハッピーエンド。所々で挿入されるRADWIMPSの歌と相まって良かったです。

 

一番印象に残ったのは、隕石となった彗星の一部が雲を突き破って地上に落下するシーンですね。あの空の作画は本当にいいです。

 

この作品に関する考察はこれからもっと出てきますので、わちきのまだ「しっかしとした」考察はブルーレイ発売を目処に回したいと思います。生憎パンフレットが完売で入手できず、関連インタビューの収集から始めたいところです。『ユリイカ』で特集されたから早く買いに行きたいんですけどね。

 

ということで、今回はこの辺で。

お前も鬱になってみればいいじゃないか!

研修で再会したわちきを鬱に追い込んだ奴との話。

 

去年、職場の事情で他店へヘルプに行くことが何度かあり、その際に鬱でいろいろと世話になった奴と昨日再会しました。その一言が「きあくん、鬱治ったか?」と。

 

お ま え の せ い で 鬱 が 加 速 し た ん だ よ !!

 

鬱も統合失調症もそう簡単に治りません。

正直って精神状況は去年に近い状態です。また休職したくなることばかり続いています。しかしもう退路がないわちきにとっては食らいついていくしかないようです。

 

2週間ほど前、例によって買い込んでいたブロン2瓶(84*2)でアルコール入りODし、リスカもし、近所の総合病院に2日入院しました。1日目はほとんど意識なかったようです。気づいたらまた病院の処置室にいて、車椅子の用意ができたら病室(いつもの個室)へ。

パーカーのポケットにスマホを入れていたので病室からツイートすることもできましたが充電が十分ではなかったのであまり触れませんでした。

なぜODしたかというと多分言葉にはできない感じです。

以前、緊急で病院に行ってからの帰りにいろいろ絶望してブロンでODしようと買い込んでも踏み止まったことがありました。あの時は途中でどうでもよくなくなったからだと思いますが、今回はどうでもよくなったのベクトルが違うようで、人生に対してどうでもよくなった、という感じでしょうか。職場でのこと、大学院研究生になること、動画作りのこと、借金のこと。この先に続くであろうあらゆる事象から逃れたくてODに逃げたんだと思います。

 

でもODした後に残る面倒臭い点滴を受けていると、ブロン買うお金で無駄遣いしたなあと思うことばかりあります。あれですね、やっぱりブロンは昔よりも買い辛くなってるようで、ドラッグストアに行っても「1家族様1瓶のみ」「使用目的は?」と聞かれたりしました。幸い、うちの近隣にはドラッグストアが山のようにあるので幾つか梯子すれば欲しい数だけ揃えることができます。

 

で、仕事を1日休んだわけですが、休み明けから「きあくん、大丈夫か?」とやたらと心配してくれる上司がいて、本当にいい職場になったなあと思います(職場には風邪で休むと伝えた)。

 

さて、来月からわちきは転勤になるので、新しい職場での研修に昨日一昨日と行ってきました(夜勤明けで正直しんどかかった)。そこで、去年、わちきの鬱を加速させた奴と再会しました(他店との合同研修だったので)。そこで言われたのが冒頭の言葉です。

 

鬱が治ってたらもっと仕事のパフォーマンスも良くなってるし、プライベートだって充実してますよ。とにかく奴の言葉が気に障った。一緒にいたオーナーも笑いながら「まあ気の持ちようだしなあw」なんて言ってました。オーナーを好きになれないところはこの古臭い「根性論」で職場を維持しようとする姿勢なんですけどね。

 

お前も鬱になってみればいいじゃないか!

 

誰もお前の面倒なんて見てくれないぞ。

病院にしか逃げ場はないぞ。

会社が傷病手当金出してくれるわけないじゃないか。

 

この度、アルバイトから社員に格上げになりましたが、いいことは何一つありません。

業務と責任が増えただけで、交通費も社会保障雇用保険傷病手当金もそういう類のものは何一つ付いてきません。だから社員になるのはずっと断ってきたのですが、オーナーが勝手に決めてしまったのでもう戻れなくなりました。

 

どうせお金が貯まり次第辞めるつもりでいるんですけどね。

京都なり大阪なり東京なり、どこか都会へ出て行くことには変わりはないつもりなのでその辺は割り切ってます。割り切りざるを得ません。

 

休日の鬱の時はとにかく何もする気力がないのでツイートもしないし(気が向いたらTL見るけど)ご飯抜き風呂入らないでずっと布団の中にくるまってゆっくり怪談を聞いています。

今日は特に何の予定もない休日なので久々にPSO2やろうかとゲーム画面立ち上げたらサーバメンテナンス中とのことでうわあああってなりました。

 

今のわちきは3月当初の鬱状態よりは幾分かマシになっています。

季節が変わるごとに鬱がひどくなるって嫌ですね。

 

今回はこの辺で。

人生に対する虚しさを感じるそうです

それは2週間ほど前に受けたカウンセリングでのこと。

 

「きあさんからは人生に対する虚しさを感じますね」とカウンセラーから言われました。

カウンセリング(50分)では最初にこの2週間の出来事をハイライトで話し、次の2週間までの予定について話し、それらに対してアドバイスを行ってくれます。また、薬の効果なども聞かれます。

それから、自分の身体の状態を意識するようにゆっくり呼吸する訓練を行っています。これは仏教で言うところの座禅に近い訓練で、「マインドフルネス」という言葉が臨床心理学の中にあり、それを実践しようと提案していただいているのです。

その後は学問の話。臨床心理学とわちきの専門分野(人文地理学)とでは接点はないように見えますが、実はいろんなところでつながりがあるのが人文地理学の面白いところでもあるのです。例えばメンタルマップ(認知地図)とか。

修論で書いたことや最近入稿した原稿のこと、これから(研究生への復帰)のことを話して、あーでもない、こーでもないと議論するのです。

カウンセリングを受け始めた当初は学問の話よりも、「辛い」「死にたい」という、もっと非生産的な話ばかりしていました(というかカウンセリングを受けてるメンヘラなら大体そうなるんじゃないか)。

それがわちきにとって生産的な話、ひいては議論にまで発展するようになったのは、3年間カウンセリングを受け続けてきた一つの成果ではないでしょうか。

 

しかし、カウンセラーは冒頭で述べたように言います。わちきからは人生に対する虚しさを感じると。

「ああ、それはきっとニーチェや中島先生の影響でしょうねー」と答えました。

わちきの思考のすべてがニヒリズムに基づいているわけではないのですが、どこかで「人生とは虚しい」と思っているところがあるのかもしれません。

 

最近知ったのですが、『ニーチェ先生』、テレビドラマ化してるんですね。あれ、最初本屋で見た時は「買おうかな...」と少し迷いましたが、わざわざ買う必要はなかったです(買えば畜群と化するだけ)。

コミックがヒットしているという話も少し見聞しました。また、最近は『超訳 ニーチェの言葉』が文庫化して(しかも2種類のデザインとかふざけてる)、まだまだニーチェブームは続いているんだなあと思う今日この頃。

 

そもそもわちきとニーチェとの出会いは、大学院2年時に都市民俗学特論の講義で読んだ『寝ながら学べる構造主義』(内田樹,2002年)にありました。構造主義といえば今は亡きレヴィ=ストロースが起こした思想・理論で、主に民俗学の方法論において重要視されています。

内田先生の本では、レヴィ=ストロース以前の、構造主義誕生に至るまでの潮流を、当時の哲学者や思想家の理論を紹介する、ある意味文献学的な位置づけができる本だと思いました。ニーチェだけではなく、デカルトヘーゲルハイデガーフーコーフロイトデリダといった、様々な哲学者たちの思想に触れることのできる、面白い本でした。

 

そして中島先生の本との出会いは、ニーチェの『道徳の系譜学』の英訳版の翻訳作業の中で参考文献としてたまたまヒットした(どんなキーワードで検索したかは定かではない)ことにあります。最初に読んだのが『「人間嫌い」のルール』(2007年)でした。本著を読んでいくうちに、当時のわちきの周りの人間がいかに「人間嫌い」もしくは「人間嫌いになりきれなかった自称人間嫌い」が多かったかというのがよく分かりました(わちきの元指導教官も「人間嫌い」なところが多かった)。

それからですねー『生きるのも死ぬのもイヤなきみへ』『カイン』『孤独について』『哲学の教科書』『人生に生きる価値はない』『怒る技術』『〈対話〉のない社会』『「哲学実技」のすすめ』『働くことがイヤな人のための本』『善人ほど悪い奴はいない』ー先生の著作を古本屋で買い漁り、修論の執筆をしつつも読みふけりました。元指導教官の薦めてくる哲学書(主にスピノザドゥルーズ)はほどんど受け付けなくなりました。

大学院を修了してからはとにかく働くことで精一杯だったので、先生の著作を買い漁ることはしていませんでした。最近になってようやく新刊まで買い集めることができました。

 

先ほども書いたように、日本では(おそらくは)まだニーチェーブームが続いています。しかしそれは本当にニーチェの思想に切り込んだブームなのだろうか?と疑問を持ちました。わちきが思うこのブームは、単に彼の言葉を都合よく切り抜きしているだけのものなんじゃないかということです。

それこそ彼が嫌った「弱者」であり「畜群」ではないだろうかとわちきも思います。

このニーチェブームについて、中島先生はニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス) | 中島 義道 | 本 | Amazon.co.jpにおいて

だが、不思議なことに、現代日本でニーチェはブームであり、まさにニーチェから「人生の教訓を学ぶ」ためのニーチェ入門書、解説書、研究書が氾濫している。彼らはニーチェが口を酸っぱくして罵倒していること、吐き気がするほど嫌悪し軽蔑していることを真っ向から受け止めようとしない。(同著,2013年,p.9)

 

と、このニーチェブームを批判しています。

ニーチェとは、当時のキリスト教(とその信者=弱者)を真っ向から批判し(「神は死んだ」)、狂人的な人生を送ったある意味危険な哲学者(のちにナチス・ドイツにも利用された)です。真の意味では「ニーチェの言葉には人生には何の役にも立たない」であろうと中島先生も仰っています。

にも関わらず、わちきの人生観を180度も回転させたニーチェと中島先生の哲学の影響力は凄まじかったです(※中島先生はニーチェだけでなくカントも専門)。

 

まとめると、中島先生の言う通り、「人生に生きる価値はない」と割り切って生きていると、なんとなくですが、気が楽になっているような気がします。「人間いつかは死ぬ。明日死ぬかもしれないし今日死ぬかもしれない」と思っていれば、投げやり感もありますが、嫌なことがあってもそれほど引っ張らないようになっています。そこでカウンセラーが「虚しさを感じる」と思ったのだと思います。

 

ただ、中島先生の思想の中でどうしてもわちきと意見が平行線になってしまっているのが「自殺してはいけない」という話です。これはまたの機会に書こうと思います。

「待つ」ということ

人は「待つ」ということに対してに神経質。

 

こんばんは。今回は「人と時間」についてのお話を少々。

みなさま、それぞれの「時間」を大事にしていますか?

仕事、趣味、食事、睡眠などであっという間に1日が終わってしまっている、という社会人も少なくはないでしょう。最近は趣味や就寝時間すらないという方もいらっしゃるようで。

 

わちきは、仕事(副業含む)、趣味(ゲームや動画制作)、食事、睡眠の全てを何とかこなせています。本当は1日が24時間以上あればいいのになあ・・・と思うこともありますが。

 

そうした生活の中で、わちきがよく目にしたりするのが、あるお客さんがコンビニでレジ会計をしてもらっている時に、2番目に並んでいる人が終始イライラしているという光景でした。なぜだかお分かりいただけますよね?店員さんがあたふたしてて(恐らく深夜のワンオペ)、わちきを含む4人くらいのお客さんの列がレジに出来ていました。会計中のお客さんはコーヒー、おでん、中華まん、ドーナツといったカウンター販売の品々を次々に注文されていました。それで、1人の会計時間がかなりかかりました。しまいには2番目のお客さんが「もう1人おらんのか!!」と怒鳴る始末。

 

深夜のコンビニのワンオペの恐ろしさは強盗よりもこういった怒鳴り声、クレームの方にあるとわちきは思います。

わちきの会計が終わったのは結局15分くらい後だったかと思います。

わちきも「もう1人おらんのかなー?」と思っていましたが、上に書いたようなお客さんのように怒鳴るようなことはしませんでした(というかできない)。

 

そういう経験をしたという方は少なくはないとわちきは思っています。コンビニ店員にしろお客にしろ。

 

なぜ、人(あえて日本人とは書かない)は時間に対してこうも神経質になるのでしょうか。

急いでるから?タイムイズマネー?いろんな考えがあると思います。

 

ここで読書紹介。

臨床哲学者の鷲田清一先生が『「待つ」ということ』(2008年)という本を出版された当時、わちきも買って読みました。

 

www.amazon.co.jp

 

どのような本かというと、確か、スマホや携帯電話の普及によって、私たちは「待つ」という必要がなくなってきた、という感じだったと思います(いかんせん6年前に買った本で今はもう手元にない)。

 

出版から約10年近く経つわけですが、果たして著者の言う「現代社会は待たなくていい」という哲学が通じるのか?ということです。

 

上に書いたように、レジで待たされるお客さんのイライラな態度を見ていると、必ずしも現代社会は「待つ」ということに対してそれを受け入れにくいようにわちきは思います。

 

わちきが大学院時代にお付合いさせていいただいた後輩(詳細はブログ記事「大学院時代の葛藤と対人依存症」を参照)とのやりとりの中で、お付き合いする以前から仲良くさせていただいたのですが、その連絡方法はほとんどがメールでした。彼女の精神状態にもよりましたが、1日ではメールが返ってこないことも多々あり、そうした時にわちきはいつも彼女に電話してしまいました。それでやっと連絡がついて「話ができる」ということに安堵感を得ていたのです。

 

現代社会の連絡用SNSの代表的なものがLINEであると思います。あれにはメッセージの「既読」という機能がついていまして、それによって、相手が何をしているか、というのを想像することができます。中には「なかなか既読にならないから困った」という人もいらっしゃるのではないでしょうか。わちきも、そういう経験があります。

 

しかし、SNSの普及によって、現代社会において「待つ」ということに対してやはり人は神経質であることに間違いないとわちきは感じています。要するに、人は「待つ」ということができない。

 

わちきの元指導教官が、2011年3月にわちきの追い出しコンパの際に言ってくれた言葉で最も印象に残っているのが「地理学者は(特定地域の時空間の現象を把握する学問が地理学)時間と空間に縛られちゃいけないんだよ」というものでした。

 

一般人にとっては「待つ」ということができない、という人もいらっしゃるようですが、わちきも地理学者を目指す身として、「時空間に支配されない」ということを人生の中で実践していけたらと思います。

 

そういう意味において、日々の「待つ」ことに対して少し距離を置いてみようと思います。送ったLINEが「既読」にならなくても、それ(既読という時間概念)に支配されないように生きてみるということが、必要なんだろうなあと思います。

 

大した読書紹介にはなりませんでしたが、いかがだったでしょうか。

次のブログ記事では中島義道先生の『ニーチェニヒリズムを生きる』(2013年,河出書房新社)について紹介したいと思います。

 

では、今回はこの辺で。

学校は必要なのか?

教科書問題を風化させてはならない!

 

SMAP解散騒動やベッキー不倫騒動、高速バス事故など、話題は絶えませんが、そんな中で一時的に報道されていた「学校教科書問題」について、少し語ります。
 
 
 【教科書問題 教員5000人超関与】小中学校の教科書会社が検定中教科書を教員らに閲覧させていた問題で、12社がこうした不適切な行為。教員5147人が関与。

 

思うに、学校教育(義務教育、高等教育含む)なんて不要だと思う。わちきが義務教育で学んだことなんかよりも、人生についての哲学をしてるほうが生きているって感じがするんだよ。

ご覧の通り、義務教育界隈は権益で腐ってる。そんな教員や教育委員会や官僚になりたいと今の子どもが思うのかね?

 

確かに、生きるということの基本は教育にあると見られるけども、学校自体は不要だと思うのだ。ネットさえ使いこなせれば知識は身につく。集団行動については、いつも言われてるのが「良き人間関係の構築」だ。これがいけない。

学校教育において、他人と仲良くしなさいと促されつつ偽りの人間関係を結んだところで何の意味があるのか。仲良くするふりをして、結局のところ人間関係に歪みが生まれてイジメに遭うだけだろう。

 

本の学校教育の構造の根幹を突けば突くほど、綻びが出てくる。それが先のような教科書問題でもある。学校教育に過度な期待は禁物である。もっと過激な言い方をすれば、学校教育なんぞ不要だということ。

わちきが学校教育で学んだことの大半は人生に悪影響を与えたモノばかりでした。授業、部活、他者との競争、イジメ。結局のところ、わちきを哲学することから遠ざけてきた。わちきはいつも思う。もっと早くから偉大な哲学者たちの本に出会うべきだったと。

高校時代に哲学書を読み耽り考えることをしていても、変わり者としてイジメの対象にはなっていただろうとは思う。しかしニーチェに倣っていれば、人間関 係、とりわけイジメなぞどうでもよくなっていただろうとも思う。今がそう。あの頃のルサンチマンから解放されて気分がいい。

 

こないだ大学の先生達と話して思ったが、大学もキャリア教育に熱心で就職予備校化しているということ。大学とは研究機関であり学者を育む場所であるとわち きは思う。しかし実際は、大手企業や公務員、官僚になるための教育ばかりで、学生の研究に対する熱意を奪っているという。

 

義務教育時代の「良き人間関係の構築」から高等教育の「立派なキャリア」へ、人生のレールが敷かれるわけだ。そりゃ、私立大学も生き残るのに必死で就職率を上げるのに熱心なのは既知なことである。学者になりたいなら大学院へどうぞ、ということである。これが一般的。

 

わちきは学生でもなければ学者でもない。だから現場の事情を全て理解しているわけではないが、再び研究者の道を目指すわけで、大学とは、大学院とは、を考えている。

もう一層の事、哲学者になればいいんじゃないかなとか思うけど、生きていくには金がいる。学問するためにも金がいる。そう思いながら畜群になり果てないようにだけ考えて、今を生きてる。それだけだ。

 

 

※本記事は1月26日のツイートに加筆・修正したものです。